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父との半年間

8月29日
父が亡くなりました。
58歳でした。

今年の2月2日の夜
新幹線で移動している時でした。
母から電話が...
出ると母は泣きながら
「パパが脳出血で倒れた」
と言いました。
「え?脳出血?」
とりあえず状況を聞き
今すぐ命がどうこうなる感じではなさそう
と聞いたので
「今日は電車が間に合わないから、明日の朝一に病院に行くから」
と伝えました。
その後新幹線の中で揺られているうちに
不安で不安で仕方なくなり
やはりすぐ行くべきだ!!と思い
友人に無理を言い
車を出してもらい病院へ行きました。

病院へ着くと
泣き腫らした母が迎えに来てくれ
ベッドの上には点滴と色々な機械に繋がれている父が寝ていました。
父が生きていることを確認でき少しホッとしました。
私は仕事があったため、あとは母に任せ、
マメに連絡を取りながら、行ける時は病院へ行くという日が続きました。
父は元々肝臓が悪く、肝硬変を患ってました。
脳出血で倒れた時には既に肝不全になっていて
ほぼ治療ができないということでした。
脳出血の影響で左側に麻痺が出ました。
それでも意識はハッキリしていて、日を追う事に会話もちゃんとできるようになりました。
少しずつリハビリもするようになって、これから良くなっていくんだなと思っていました。

入院して2週間が経とうとした時
突然病院から電話が。
「出血した影響で脳が浮腫み、脳幹を圧迫している。今すぐ何があってもおかしくない。すぐに病院に来てくれ」
という内容。
頭の中が真っ白になりました。
「すぐ病院へ行きたい!!
けど...今からリーグ。穴はあけられない」
不安の中、リーグを投げ、終わってからすぐに病院に向かいました。
着くと、病室のベッドにはいつもの感じで父が寝ていました。
いつもの点滴の他に、浮腫を取る薬を追加することになりました。

今後の治療の話
肝臓の話
延命治療の話

先生から話される内容を母と2人で聞き
2人で泣きました。

「寝ているだけのように見えるのに...
本当に死んでしまうかもしれないの?
ずっとずっと迷惑と心配ばっかりかけて、まだまだ親孝行なんてできてないよ。。」
そんな気持で、ずっと父のそばにいました。
寝ている父の横で、どれだけ泣いたかわかりません。
3日くらい経って、先生からお話がありました。
「幸い、浮腫をとる薬が効き、危機的状況は逃れました。これからリハビリをもっと頑張っていきましょう」
希望が見えた!!
頑張ろう!!
病院もリハビリ専門の所へ転院しました。
それから父はリハビリを頑張り、母もそれを支えていました。
動かなかった足も腕も
ちょっとずつ動くようになっていきました。
脳は浮腫もなくなり、順調に回復していきました。
父は家族をつれてディズニーランドに行く、ユニバーサルに行くというような事をたくさん言っていました。
私と母は「まず、歩けるようになってからね!!リハビリしっかり頑張ろうね!!」
とよく言っていたなぁ。
GW前にやっと退院。
麻痺は残ったけど、少しなら杖をついて歩くことも出来る。
車椅子を使えば、普通に外出もできる。
これからはもっと父の顔を見に行こう!!
美味しいものもたくさん食べに行こう!!
みんなで旅行にも行こう!!

そう思っていたのに。

6月の初め
実家へ帰った時にふいに父が
「パパ、あと半年だから」と笑顔で言った。
いや、冗談でしょ?
「え?死ぬかもしれないって言われて、ここまで回復したんだから、長生きするよー!!」って言ったけど...
「本当なんだよ」って。
末期の肝臓ガン。
医者からは既に余命宣告を受けていたらしい。
どんだけ辛かっただろう。
父も母も。
なんであの時、私に笑顔で言ったの?

次の日も父に会いに行き
家族みんなで食事に行きました。
久々の家族揃っての外出。
父はとても喜んでくれました。
「今日は本当に楽しかった」
その一言が本当に嬉しかった。
帰る前に父に1つ頼まれたことがありました。
「なつ、ママとパパのツーショット撮ってくれ」
そんな事、初めて。
いつも写真は撮られるのは好きじゃないから、撮る側でいいと言っていた父。
そんな父のお願いに胸が詰まりました。
その時の写真は、私にとって忘れられない物になりました。

父は入院ではなく、訪問看護をお願いして、
自宅で過ごすことを選びました。
母も、父の選択を尊重しました。
親戚のみんなも、すごく協力してくれました。
しんどいながらも、口喧嘩をする父と母を見て、なんか微笑ましかった 笑
本当に2人は仲良しだったなぁ。

8月に入り、少しずつ父の容態が悪くなっていきました。
お盆明け、父の具合が良くないと連絡がありました。
25日、仕事前に母から電話が。
「パパ、あと1週間だって」
とうとうそこまで来てしまったのか...
26日、東京からそのまま父のところへ行きました。
ベッドに寝ている父。
飲まず食わずでやせ細り、意識レベルも低下していました。
もう話すことすらできない。
でも、こちらの声は届いている、そんな状態でした。
何度も何度も呼びかけて、1度だけ目を開けてくれました。
何か言いたげに口を動かすのですが、何を伝えたかったのか...わかってあげることができませんでした。
29日、朝。
母から電話
「なっちゃん。今日来れる?パパがやばそうなの」
わかったと返事をして、電話を切りました。
その数分後、母から2回目の電話。
「パパ、息してない」
泣きながら、そう言われました。
仕事の段取りや準備、連絡すべき人に一通り連絡し、父のところへ急ぎました。

父はいつものようにベッドの上にいました。
とても穏やかな顔で、少し微笑んでいるように見えました。
いつも傍には母がいて。
それから、父の兄弟、親、親戚の方々が来てくれて。
寂しい思いをせずに過ごせたのかな。
その日は、久々に家族だけで過ごしました。
パパの傍で寝るのはいつぶりだろうか。
そんなことを考えていたら、全然眠れなかった。

お通夜、告別式は、家族葬にて執り行いました。
それでも、たくさんの方々が来てくださり、感謝の気持ちでいっぱいでした。
ご連絡頂いた皆様にも、感謝の気持でいっぱいです。
本当にありがとうございました。
母の涙も、親戚の涙もたくさんたくさん見ました。

パパ、パパが亡くなって、たくさんの人が悲しんでいるよ。
パパはちゃんと愛されていたんだね。

ママ、パパと結婚してくれてありがとう。
パパと最後まで一緒にいてくれてありがとう。
最後はたくさんたくさん辛かったよね。
でも、ママがいてくれてパパは幸せだったと思う。

おばあちゃん、パパを産んでくれてありがとう。
おじいちゃん、パパの遺骨を持つのは辛かったよね。ごめんね。

父は最後まで母の心配をしていました。
父は本当に母の事が大好きで、最後まで大切にしていました。
これからは、私がちゃんと支えるから。

「誰でも何かひとつ、特技がある方がいい」と、父が始めさせてくれたボウリング。
プロテストを受けることもすぐに賛成してくれました。
合格した時も、本当に喜んでくれました。
私は今、ちゃんとプロボウラーできてるのかな。
父にとって、自慢の娘でいられてるのかな...
不安で不安で仕方ない事もたくさんある。
でも、私を支えてくれている人もたくさんいる。
いつでも感謝の気持ちを忘れずに、大切にして生きていくね。
間違ったことも、失敗したこともたくさんあるけど、もう一度自分を見つめ直してみようと思う。

パパ、あまり言えなかったけど...
たくさんたくさんありがとう。
菜摘美はパパの事大好きだったよ。
これからもずっと忘れない。

最後になりましたが、
長文になり申し訳ありません。
最後まで読んで頂きありがとうございました。

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